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この作品 「小早川中納言秀秋」 は 「女の子」「夭折さえなければ……」 等のタグがつけられた作品です。

天正10年(1582年)~慶長7年(1602年)。幼名辰之助。通称金吾。左衛門佐...

JUN松

小早川中納言秀秋

JUN松

2009年5月19日 14:01
天正10年(1582年)~慶長7年(1602年)。幼名辰之助。通称金吾。左衛門佐、権中納言。豊臣秀吉の正室高台院の兄木下家定の三男として生まれる。秀吉の猶子となり、丹波亀山10万石を領し、羽柴秀俊と名のる。1594年(文禄3)小早川隆景の養子に入る。同年11月中国に下向して三原城に入り、毛利輝元...続きを見る
天正10年(1582年)~慶長7年(1602年)。幼名辰之助。通称金吾。左衛門佐、権中納言。豊臣秀吉の正室高台院の兄木下家定の三男として生まれる。秀吉の猶子となり、丹波亀山10万石を領し、羽柴秀俊と名のる。1594年(文禄3)小早川隆景の養子に入る。同年11月中国に下向して三原城に入り、毛利輝元の従妹を妻とした。翌年家督を嗣ぎ、隆景から筑前1国、筑後の大部分、肥前2郡33万6000石を譲り受け、隆景が三原に隠居後、秀秋は筑前名嶋城に移った。1597年(慶長2)朝鮮に出陣。釜山浦城の守将となり、また蔚山城の救助に活躍し、帰国。その後秀吉の怒りに触れ越前北庄に移封されそうになったが、徳川家康のとりなしで筑前に留まる。1599年秀吉の遺命で復領し、筑前・筑後52万2500石を得る。翌年関ヶ原の戦いで西軍として伊勢口を守り、伏見城を攻めたが、9月の関ヶ原決戦時には東軍への寝返りを決行し、その戦功により家康から備前、美作において50万石を与えられ、岡山城に移り住んだが、慶長7年死去、享年21歳。見た目はオドオドしてる感じの気弱な女の子だが、とてつもなく酒癖が悪く、取り巻きの稲葉や平岡等に当たり散らす事もしばしば。稀にヤンデレスイッチが入るのが難点。閉じる
JUN松2009年5月20日 10:29コメント有難うございます!簡単について来ますが、騙したと分かった瞬間人が変わります。月男さん、お褒め頂いて光栄です。 竜宮たつき2009年5月20日 00:29西洋菓子でも使って誘ったら、簡単について来そうwwwww 2009年5月19日 21:58戦国時代物のよろいなど、丁寧に可愛く描けていて、センスの良さに脱帽です。