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この作品「ただ君のそばで」は「ショートショート」「秘封倶楽部」等のタグがつけられた作品です。

2014年1月に秘封倶楽部に出会って感動し、その勢いで書いたものです。今読み返し...

ただ君のそばで

鈴けいか

2015年1月23日 19:10

2014年1月に秘封倶楽部に出会って感動し、その勢いで書いたものです。今読み返しますと少々設定に無理があり、続きを書くかどうかは未定なのですが、それでもよろしければよろしくお願いします。

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活動はハイソサエティな喫茶店にて

　「蓮子」
　体が揺れている。地震？
　目をこすり声のする方へ目を向けると、相方の呆れた顔が見えた。
　「授業が終わったのだけど。知ってた？」
　「知らなかった。教えてくれてありがとう。」
　授業は今さっき始まったような気がしていたけど、どうやらそのほとんどを寝てしまっていたようだ。あまり興味のない内容の授業はどうも眠ってしまう癖がある。直さないといけないなと思いつつ今日までに至る。
　私の名前は宇佐見蓮子。はすこ、じゃなくて、れんこ。
　そしてこの親切にも私を起こしてくれた相方、名前はマエリベリー・ハーン。一体何人でどこから来たのかわからない。一度聞いた時はぐらかされたのでそれ以降は聞いてない。私の黒髪に黒い目とは違い、ふわふわとウエーブのかかった金髪に透き通るような青い目。その姿はまさに絵画で。天使ってきっとこんな容姿をしているのだろうと思う。メリーはどこにいても目立つ。キラキラと光を放っているかのよう。さらにいい匂いがする。さぞやたくさんの男を泣かせたことであろう。
　「蓮子、今変なこと考えているでしょう」
　「気のせいじゃない？」
　変なことではないよ。うん。

　荷物をまとめて席を立つ。今は放課後だ。
　さあ、秘封倶楽部の時間ですよ。

　秘封倶楽部は倶楽部とは言ったものの、非公式。だから学校内には私たちの部室はないし、部員も私とメリーの二人だけ。今のところは不自由ないし、いいのだけどね。

　『からんからん』

　行きつけの喫茶店に入る。マスターはうつらうつら船を漕いでいた。気持ちの良さそうなところ悪いなぁと思いつつコーヒーを注文し、いつも通りの席に着く。低めの音量で流れるジャズ。色に味のあるインテリア。マスターのセンスが窺える。ここの席はいつもあいているけど、別にお客さんがいないわけじゃない。来るお客さんがだいたい決まっていて、だいたいみんな同じ席にしか座らない。まるでそれは指定席のよう。私たちもその例に漏れずいつも通りの席に着いたわけだ。

　「ん～っ」
　うん。やっぱりここのコーヒーは効くなぁ。決め手はなんだろう？香り？コク？いやもう全部ね。パーフェクトだわ。明るすぎない間接照明が一層このコーヒーをひきたてるわね。

　私が至福の時を満喫している様をメリーはじっと見ていたようだ。先ほどから満面の笑みだったが、目が合うと更に上をいく微笑みになった。
　「どうしたの、メリー」
　「いえ、蓮子は本当においしそうにコーヒーを飲むなあと思って。」
　その返答は説明になっていない気がするけど…
　深く追及するようなことでもないので敢えててきとうに「ふぅん」とだけ返しておいた。

　コーヒーを半分飲み、一息ついたところで早速境界の話…をしたかったのだけど、今日はお互い学校の課題が出ていたのであった。私はさっさと終わってしまい、メリーは悪戦苦闘していた。学科が違うとこういう時不便だ。私に分かることならメリーになんだって教えてあげたいのに。
　でも、こうして一生懸命になっているメリーを眺めるのもなんだか好きだ。メリーは私が目の前にいることを忘れてしまったかのように思う存分真剣に集中していた。
　きらきら光る髪が、顔に一本垂れる。
　ドキッとした。体が軽く跳ねた。
　「蓮子？」
　「あ、いや、あの」
　急にメリーが顔を上げる。私は今どんな顔をしている？
　熱い。とても熱い。どんどん熱い。
　「蓮子、もしかして風邪をひいているの？」
　「ど、どうして？――っ！」
　私のそのどうしてという言葉とほぼ同時にメリーの柔らかな手が額に触れた。気持ちいい。メリーの手、冷たい。
　「やっぱり、熱があるみたい。送っていくわ」
　「大丈夫だよ」
　「遠慮しないの」
　めっ。と人差し指を指される。そっか、風邪のせいだったのか。どおりで今日はずっとドキドキしているわけだ。財布から小銭を出してお店を出る。そうだった。部室がないことの不自由、あったわ。
　それはお金。

　店を出て、電車に乗って、いつも私が降りる駅でメリーもついてきた。メリーの家はもう２駅先だ。
　「メリー、そんなに気を遣わなくても。」
　「定期だから値段は変わらないわ」
　財布を開いて電車の定期を見せて、メリーはそう言うと笑った。私が言いたいのはお金の問題じゃなくて時間の問題なのだけど。メリーはまだ課題が残っているし、時間が惜しいはず。
　メリーを電車に押し戻そうとすると、そのすんででドアが閉まる。危なかった。メリーを電車のドアに挟んでしまうところだった。
　ああでもどうしよう、電車が行ってしまった。次の電車を待ったとしても約十分のタイムロスだ。更にメリーのことだ。家まで送るとか言い出しかねない。駅と家との往復で更に二十分のタイムロス。家まで来てもらってタダで帰していいのだろうか…そうなると更に何分のタイムロスになるだろうか…ああダメだダメだ。
　「蓮子」
　「え？」
　メリーが私の顔を覗き込んでいることに今気づいた。いつからのぞき込まれていたのだろうか分からないが、何かを見透かされたようで少し恥ずかしい気持ちになる。
　「おせっかいが過ぎたかしら？」
　予想していなかったメリーの言葉に私は驚いた。難しく考え込んでメリーを心配させてしまったみたいだ。これ以上彼女に心配をかけないために私は努めて明るく笑った。
　「いえ。ありがとう、メリー。」

　家に帰ると早々にベッドに寝かせられた。
　私の部屋は６畳１間。申し訳程度の料理スペースにはガスではなく電気のコンロ。その隣に冷蔵庫。炊飯器、トースター、電子レンジが同じラックの１段ごとにせせこましく入れてある。流しにはツッパリ棒で作った水切り台がある。省スペースの救世主である。お風呂にもツッパリ棒を駆使している。シャンプーやリンスは詰め替え用にフックを取り付けるだけのタイプを使っているし、トイレの便器の裏に通したツッパリ棒に掃除用具をぶら下げてある。ユニットバスなので洗面器の裏の部分と壁とでツッパリ棒を使っているのだけど…ってそんな話はどうでもいいよね。
　部屋はとてもシンプルで、奥にテレビがあって、その隣に本棚。あとは中央に机。それから本棚とテレビの反対の場所にベッドがある。あまりカラフルなのは好きじゃないから、だいたいは白か黒でモノトーンな部屋になっている。
　「さて、と」
　「ん？」
　メリーは私の机に筆記用具を出す。まさか、メリー…
　「ここで課題をやるの？」
　「そのつもりだけど、いけない？」
　「いけなくは、ないけど…」
　どうやらよっぽど心配させてしまったみたいだ。これは早いところ眠って、メリーを安心させた方がいいな…。
　メリーに合鍵を渡し、出ていく時はポストに入れておくように言ってから私は眠りにつく努力を始める。
　…眠くない。
　当たり前だ。まだ十九時じゃないか。普段０時に眠る私にはありえないほど早い時間だ。そもそも夕ご飯も食べてない。ああ、そう考えたらお腹がすいてきた…。でも起き上がるとメリーを心配させるだろうし…。
　「メリー、あの」
　「なに？」
　「おかゆ作ってもらえないかな？」
　そういえばそうか、みたいな顔をしたあと、照れ笑いしたメリー。
　いや、メリーに落ち度があったわけじゃないのだけど…うーん、病人って難しいわね。指南書でもあればいいのに。
　冷蔵庫から何かを出す音が聞こえてくる。程なくしてトントンとまな板の音が響く。ご飯を茹でてくれるだけで良かったのに。卵が入る音。
　ここからはメリーの料理風景は見えないけど、鼻歌から察するに、楽しんでくれているようだ。メリーは料理好きなんだ。初めて知った。
　いい匂いがしてきた。本格的にお腹がすいてきたぞ。そう思ったころ、メリーが戻ってきた。
　「ふーふー、あーん」
　「…」
　「蓮子？」
　「えっと、自分で食べられるから…」
　「そう？」
　私の言葉に少し残念そうにメリーは返した。ああ、メリーがしたかったのね。
　うぅん…そうとわかってもやっぱり恥ずかしいので気が付かないふりをしよう。
　「ありがとね。いただきます。」
　もやしと大根と卵か。味は塩で整えたのね。野菜の甘さだとか、塩の塩分だとかリポート出来たらいいのだけど、素直においしいしか出てこない。
　おかゆを食べ終えて薬を飲んでから横になると、すぐさままどろみがやってきた。うとうとしていたのか、眠っていたのか、かしゃんと鍵がポストに落ちる音がした。ああ、メリーは帰ったのか。
　おやすみ、メリー。

当たり前の世界

　メリーの残り香のする部屋で目覚める。うーん、良く寝た。
　「ふぁ～…ん？」
　あれ？風邪でも引いたかな？自分のあくびの声が驚くほど低い。
　まあいいや、今何時だろう？時計を見るとまだ余裕がある。いつもはコーヒーで済ませるけど、今日はトーストを用意した。
　「う～…うーん」
　気持ちのいい朝で、気持ちよく伸びをしたいのに声が低い。なんだか気持ちが萎える。さきほどは１発目の声だったし、たまたま不発だったのかと思っていたがどうやら違うらしい。喉が痛いわけでもないのに、なぜこんなに声が低いのだろう…。頭の中の不快感がぐるぐると巡る。家に居るとちょっと良くないな。まだ時間に余裕があるけど家を出る。
　外は朝のにおい。心地いい。木々が風に揺れる音や、小鳥の囀り。遠くを通る車の音。耳に入る色々な音がまるでオーケストラのよう。ああ、なんて心地いい朝だろう。なんでこんなに心地いいのに。
　「なんて声なの…うわ」
　完全に男の声じゃない。まったく…。風邪にしたって声が低すぎる。あまりの慣れない声に、私は何度も驚いてしまう。当たり前だ。慣れるはずがない。私は女で、しかもどちらかと言えば声が高い方だったはずだ。それが一夜にして男の声。世界は何かがどうかしてしまったのではないか、なんて大げさに考えてしまう。
　そうこう考えているうちに駅についた。電車に乗り、ドア付近で寄りかかる。ふと気づく。そういえば今日は髪を結んでいなかった。
　鞄からりぼんを取り出そうとすると、いつも鞄に入れていた予備のりぼんがない。何かの時に取り出したのだろうか？
　そんな記憶はないけれど…。
　なんだか今日はやっぱり変だ。
　いつも通りの風景がどんどんと嘘っぽく見えていく。
　世界で取り残されたような。ただ一人取り残されたような。メリー…メリーに会いたい。
　電車が学校の最寄り駅に着くと、時間なら余裕があるのに、小走りで改札をくぐる。メリーに会えばこの不安は拭える気がする。早く、早く、メリー…
　改札の向こうには、いつもならメリーがいて、手を挙げて私を迎えてくれて、そのメリーが、今日はいない。
　私がいつもこの駅に着いている時間は、今より三十分もあとだ。つまりメリーが着くまでには最低でもあと三十分…
　気を紛らわすためにケータイのゲームでもしてみる…が、やる気が起きない。情報サイトを見るのも、なんだか乗り気になれない。コンビニでコーヒーを買い、ぼんやり空を眺める。最近のコンビニのコーヒーの進化のおかげで少し気持ちが落ち着いた。
　さて、この違和感はなんだろう。そもそも声が一番の違和感なわけだけど、それだけじゃない。りぼんはなんで入っていないのだろう？
　いつでも入れっぱなしにしていたはずの、私の少ないおしゃれであり、極小ながらの女らしさだったはずなのに。そうこう考えているうち、おそろしく長い三十分がそろそろ終わりを告げようとしていた。だけどもメリーはまだ来ない。
　時間的にそろそろクラスメイトとすれ違ってもいい頃だと思うけども、全然すれ違わない。
　いや、そんなことよりメリーだ。昨日私の家に遅くまでいたから、メリーは寝坊してしまったのかもしれない。メリーが私より遅いなんて初めてのことだ。なんて考えていると、走る足音。
　振り返ると、メリーだ。メリーがこっちへ向かってくる。これをどれほど待ちわびたかわからない。いや、三十分あまりだけど。
　
　「蓮！」
　「ああ…良かった、遅かったじゃない。心配していたのよ？」
　「遅くなってごめんなさい…ん？蓮、どうしたの、そのしゃべり方？」
　「そうなの。朝起きたら声がすごく低くて…」
　「いえ、蓮。声じゃなくてしゃべり方よ」
　「…え？」
　何かおかしい。いつものメリーじゃない…？
　ふわふわの金髪に青い目、引き寄せられるような容姿はいつも通りだけど、いつものメリーなら、その微笑みは光り輝いて、聖母のようで、天使のように柔らかで…
　なのに今のメリーは妖艶で、悪魔のようで…
　それに、今、メリー…
　「蓮、って言った？」
　「ええ。それがどうしたの？」
　「蓮、って言ったのね？」
　「蓮、あなたおかしいわ」
　一度目は笑顔で尋ねた。メリーも笑顔で答えた。
　二度目は真顔で尋ねた。メリーは怪訝な顔で答えた。
　「ええ、私今とてもおかしいみたい」
　先ほどの不安が蘇ってくる。不安はどんどん膨れ上がって、今にも爆発してしまいそう。パンパンに張りつめて、溢れ出すのを待ち構えているかのよう。
　「メリー、何かの冗談だったらもう十分よ。」
　「メリー？」
　「ええ。だからもうまいった。降参よ」
　「メリーって、誰の話？」
　メリーがメリーを誰って？
　メリーはメリー、あなたのことじゃない…！
　「メリーいい加減にして。全然笑えない」
　「何を言っているかよくわからないけど、落ち着いて？」
　「そう。じゃあわかりやすく説明するわね？私は宇佐見蓮子。蓮じゃないわ。この声はいつも通りじゃないし、私のしゃべり方はいつも通りだし、あなたはマエリベリー・ハーン。これで分かった？」
　すう、と一つ息を吸い、言えるだけの全部を言い切った。
　「ああ、あなた、向こうの蓮なのね」
　語気を強める私に対し、何か納得して彼女は答える。その声は冷静で冷たくて、さして興味がなさそう。私は何一つ分かっていないのに。なんだか腹立たしい。
　「まず、私はメリーじゃないわ。私は八雲紫。あとあなたは宇佐見蓮子じゃなくて、宇佐見蓮。向こうでのあなたは蓮子かもしれないけれど、今は蓮よ」
　一気にすべて言いきった私とは対照的に、一呼吸ずつ置いて、ゆっくり話した彼女は…八雲…紫…？
　メリーじゃない…？
　たしかに、メリーによく似ているけど、そっか、別人だったのね。え、ちょっと待って。
　「私、蓮、なの？」
　「そうよ」
　即答だった。
　「今まで生きてきて、私はずっと蓮子だと思っていたわ」
　いや、私は私で、心は宇佐見蓮子のままだ。だけど宇佐見蓮の体の中に今心が入っている。だから明確に言えばやはり私は宇佐見蓮子なわけだけど…。
　「そうでしょうね。どうしてそうなったかはわからないけれど、あなたは蓮と入れ替わってしまったみたい」
　八雲さんと名乗るメリーにそっくりなその人はとても落ち着いていた。まるで入れ替わってしまっても、そんなことは日常かのよう。もしかして、そんなことが当たり前の世界に来てしまった…？
　「私、境界を越えたの…？」
　願い続けた、憧れ続けた境界の先。
　予告なく、明らかな変化なく、呆気なく、突然に。
　私はメリーを残したまま、やってきてしまったのだ。

願い続けた先

　八雲さんといつもの喫茶店に入る。
　いつも通りのこくりこくりと居眠りをするマスター。心地いい音楽に、モダンなインテリア。そしていつも通りの席。
　
　「先に訂正しておくけど、ここはあなたの想像している境界の向こう側ではないわ」
　いつも通りのコーヒーを味わっていると、八雲さんも同じ風にコーヒーを口に含む。メリーはコーヒーを飲まないのに…八雲さんは八雲さんで、やっぱりメリーじゃない…なんて考えていると、八雲さんがゆったりとそう口にした。続きをしばらく待つために黙ってみた。
　…が、続きは話されず、八雲さんはまたコーヒーを含み、何事もなかったように外を見た。
　たぶん、たった数分。だけど耐えかねて、私は口を開いた。
　「あ、あの。私の想像している境界の向こう側じゃないって、どういう意味ですか？」
　八雲さんは一度空を見てから私の方へ向き直す。
　「そうね…つまり今、境界の外にも中にもいないの。内側でも外側でもない。境界にいる。」
　左手を垂直に立て、右手で、左手で隔てた机の右側と左側を指し、垂直に立てている左手を指す。簡単で単純でわかりやすくて誰にでも行えるその行為が、八雲さんの美しい手から展開されているせいか、吸い込まれるような、圧倒されるような気持ちになった。まるで左手で隔てたその世界は視覚以上に広がっていくような…。
　「そうね…例えるなら、部屋と部屋を隔てるドアを開けて、そのドアで立ち止まっている、とでも言えばいいのかしらね」
　八雲さんは言葉を選びながら思案する。いろいろな手段を講じてもらっても、たぶん“わかったような気がする”の域を達することは出来ないだろうと思った。
　「ええと…大丈夫です。ともかくよくわからない世界に今いることだけはわかりました。」
　「そう…そうね。今はそれだけわかってもらえればいいわ」
　そのあと数度コーヒーを口に含む。お互い無言。
　沈黙が続く。平日の昼間だからか、時計のカチカチという音が響き、余計に時間を感じる。そして沈黙を破るのは、やっぱり私だった。
　「あの。それで、私は帰りたいのですが、どうしたらいいのでしょうか？」
　頼る人は誰もいない。だからこの人の機嫌をそこねちゃいけない。こんなことを聞いたら、もしかしたら不快な思いをさせるかもしれない。だけど私は焦っていて、冷静になんてなれない。手が汗で濡れ、じりじりと心が追いつめられる。八雲さんを見ることが出来ない。私はうつむいて、こぶしを握っていた。
　「帰って、それで、どうするの？」
　八雲さんの返答は意外過ぎて、私にはまったく意味がわからない。
　わからなさすぎて、絶句していた。
　帰ってどうする？
　それはもう、メリーに会うに決まっている…！
　「…あなたはなぜここにいると思う？」
　カチカチと時計の音が響く。音がどんどんと頭に響いて、ふわふわと、自分のいる場所がゆがんでいるような感覚になる。八雲さんは私の答えを待っているのか、黙っている。私はというと、そもそもどう考えていいか分からず、答えなんて出るはずもない。
　「ええと、私、こんなところにいるのは不安で、いたたまれなくて、全然私、その、私の居場所じゃないっていうか…」
　ああ、言葉がめちゃくちゃだ…。まとまりがなくてめちゃくちゃなのに、八雲さんはうんうんと聞いてくれた。不機嫌そうな顔は、どうやら元々らしい。
　「ここは本当にあなたの居場所じゃないのかしら？」
　「メリーのいないこの世界は、私に居場所なんてないですよ。メリーが、私の居場所なんですから。」
　八雲さんはそれを聞いて驚くでもなく、呆れるでもなく、とくに気にした様子ではなかった。ただそのまま言葉をそのまま受け取ったような。変化のない様子で、私の言葉はまるで発された意味なんてないようで。
　「この世界にマエリベリー・ハーンはいるわ」
　「え！」
　思わず立ち上がった。メリーがいる！メリーに会えるんだ！
　私は机の上で前に乗り出し、八雲さんの次の言葉を待ち構えた。
　「マエリベリー・ハーンは私。」
　「…？」
　八雲さんはまたわけのわからないことを言い出した。
　始めに自分を“八雲紫”と言い、私もこの人の固有名詞は“八雲紫”であると理解したはずだ。
　にも関わらず、“メリー”を名乗る？
　「八雲さん、あなた始めに、“自分はメリーじゃない”と言ったじゃないですか」
　「ええ、言ったわ。だけどたぶん、私はメリーだったのよ」
　「…」
　まるでわからない。何かの言葉遊びをされているのだろうか。それともからかわれているのだろうか。何か深い考えがあるのだろうか。とくに意味はないのか。
　考えていると、再び八雲さんは口を開く。
　「あなたが蓮であり蓮子であるように、私は八雲紫であり、マエリベリー・ハーンなのだわ」
　うん、そうだわ。とでも言いたそうな、八雲さんは納得した顔をした。
　冗談じゃない。一人で納得されては困る。私はまるでわかっていないのだ。
　「なぜ私がマエリベリー・ハーンなのかしら？」
　八雲さんに質問する前に、先に八雲さんに質問された。
　さらにその質問はどんどんと意味不明なものになってきている気がする。頭がパンクしてしまいそうだ。
　「ねえ、蓮。あなたは知らなくてはならない。見つけなければならない。」
　「何を、です？」
　「あなた自身が気づかなくてはならないことを、よ。」
　八雲さんは謎が先に解けてしまったようで、立ち上がる。まるで、もうこの話は終わり、とでも言いたげだ。
　八雲さんはさっさと会計を済ませて出て行ってしまう。八雲さんを追いかけ、私も会計を済ませる。
　いつも通り、ちょっぴり財布に痛い金額。
　「あ、あの！」
　「何かしら？まだ私に用？」
　用なら山ほどある。
　さっき帰れるようなことを言って、結局帰してはくれないし、メリーだと言ったりメリーじゃないと言ったり、本当にわけがわからない。だけどまず言いたい。
　「私は、蓮子ですから！」
　はっきりとそう告げるとしばしの無言。聞こえていなかったり無視していたりするわけでなく、八雲さんは思考し、言葉を選んでいた。その間はたった数秒。だけどいやに長く感じた。その後、八雲さんは口を開く。
　「私が八雲紫なら、あなたは宇佐見蓮。私がマエリベリー・ハーンなら、あなたは宇佐見蓮子。それがたぶん、この世界のルールよ。」
　その言葉は、私に呆れているでも、私に怒るでも、ましてや私を拒絶するでもなく。忠告。
　
　それから程なく、今度の沈黙を破るのは八雲さん。
　「だって蓮、考えても見て？」
　声は優しく、子供をあやすような。メリーに似た声。メリーに似た口調。
　
　「あなたはマエリベリー・ハーンがいる世界があなたの居場所だと言ったわ。なら、なぜあなたはまだここにいるの？」
　響いていく。メリーに似た、この人の言葉。
　
　「なぜマエリベリー・ハーンを探しに行かないの？」
　じりじりと心は追いつめられていく。なのに、次の言葉を求める。期待する。
　
　「答えは簡単だわ。あなたは私をマエリベリー・ハーンだと認めているのよ」
　あくまで優しく、ゆっくりと、丁寧に。

　トドメを刺された。

　この世界では八雲さんがメリー…このわけのわからない事柄は、本当にわけがわからないのに、妙に納得出来た。
　つまりそうか。それがこの世界での、ルール。
　例えるなら、数式や英語で理解出来ないものがあったとして、深く追及などしない。それはそういうものであるから。ルール、法則、規定、決まり、約束。メリーがいるから私の居場所であると、逆説的で強引に認められてしまった。

　――――――
　そのあとどう帰ったのか、記憶にない。
　たぶん家までの道のりはいつも通りだから、なんとなくでも帰れたのだろう。ドアを閉め、ドアを叩く。
　何に怒ればいいのか、何に悲しめばいいのか、何を恨めばいいのかわからない。
　
　眠ろう。目覚めたときはもう少しまともに考えられると信じて。

　おやすみ、メリー。

差し込む光は橙

　昼時に家に着き、そのまま眠った。
　目覚めると十六時。部屋に差し込む光は橙色。部屋は美しく色づく。
　いつも見ている景色とあまりに同じであるからこそ不気味に感じた。

　鏡を見ると、そこには私によく似た青年がいた。髪の色、目の色、全体的な顔立ちにそれほどの違いはない。
　だけど男。この人物は紛れもなく男だ。
　理論や化学の及ばない何かで、私の性別は…いや、事実だけ受け止め、考えるのはやめよう。

　眠る前に考えていたことをゆっくり思い出してみよう。
　まず、私は何かよくわからない世界にいる。この世界にはメリーの代わりに八雲紫という人物がいる。また、この代わりにという概念はそもそも八雲さんの言葉から来ているものであり、確証はない。が、なぜか分からないが私は納得できてしまう。八雲さんをメリーとして受け入れられてしまうのには、この世界のルールが関わっているようだ。
　この世界のルールはまだこのことしかわかっていない。だけど、この世界と今までの世界との差はまだある。眠る前はそれほど気にしなかったが、人にあまり遭遇しない。八雲さんとマスター以外の人間を見ていない。
　まるで私から見て、毎日必ず会う二人にだけ会っているかのような…いえ、まさかね…。

　――――！
　私がこうして入れ替わっているということは、”宇佐見蓮”はどうなったの？

活動はハイソサエティな喫茶店にて

「蓮子」
　体が揺れている。地震？
　目をこすり声のする方へ目を向けると、相方の呆れた顔が見えた。
　「授業が終わったのだけど。知ってた？」
　「知らなかった。教えてくれてありがとう。」
　授業は今さっき始まったような気がしていたけど、どうやらそのほとんどを寝てしまっていたようだ。あまり興味のない内容の授業はどうも眠ってしまう癖がある。直さないといけないなと思いつつ今日までに至る。
　私の名前は宇佐見蓮子。はすこ、じゃなくて、れんこ。
　そしてこの親切にも私を起こしてくれた相方、名前はマエリベリー・ハーン。一体何人でどこから来たのかわからない。一度聞いた時はぐらかされたのでそれ以降は聞いてない。私の黒髪に黒い目とは違い、ふわふわとウエーブのかかった金髪に透き通るような青い目。その姿はまさに絵画で。天使ってきっとこんな容姿をしているのだろうと思う。メリーはどこにいても目立つ。キラキラと光を放っているかのよう。さらにいい匂いがする。さぞやたくさんの男を泣かせたことであろう。
　「蓮子、今変なこと考えているでしょう」
　「気のせいじゃない？」
　変なことではないよ。うん。

荷物をまとめて席を立つ。今は放課後だ。
　さあ、秘封倶楽部の時間ですよ。

秘封倶楽部は倶楽部とは言ったものの、非公式。だから学校内には私たちの部室はないし、部員も私とメリーの二人だけ。今のところは不自由ないし、いいのだけどね。

『からんからん』

行きつけの喫茶店に入る。マスターはうつらうつら船を漕いでいた。気持ちの良さそうなところ悪いなぁと思いつつコーヒーを注文し、いつも通りの席に着く。低めの音量で流れるジャズ。色に味のあるインテリア。マスターのセンスが窺える。ここの席はいつもあいているけど、別にお客さんがいないわけじゃない。来るお客さんがだいたい決まっていて、だいたいみんな同じ席にしか座らない。まるでそれは指定席のよう。私たちもその例に漏れずいつも通りの席に着いたわけだ。

「ん～っ」
　うん。やっぱりここのコーヒーは効くなぁ。決め手はなんだろう？香り？コク？いやもう全部ね。パーフェクトだわ。明るすぎない間接照明が一層このコーヒーをひきたてるわね。

私が至福の時を満喫している様をメリーはじっと見ていたようだ。先ほどから満面の笑みだったが、目が合うと更に上をいく微笑みになった。
　「どうしたの、メリー」
　「いえ、蓮子は本当においしそうにコーヒーを飲むなあと思って。」
　その返答は説明になっていない気がするけど…
　深く追及するようなことでもないので敢えててきとうに「ふぅん」とだけ返しておいた。

コーヒーを半分飲み、一息ついたところで早速境界の話…をしたかったのだけど、今日はお互い学校の課題が出ていたのであった。私はさっさと終わってしまい、メリーは悪戦苦闘していた。学科が違うとこういう時不便だ。私に分かることならメリーになんだって教えてあげたいのに。
　でも、こうして一生懸命になっているメリーを眺めるのもなんだか好きだ。メリーは私が目の前にいることを忘れてしまったかのように思う存分真剣に集中していた。
　きらきら光る髪が、顔に一本垂れる。
　ドキッとした。体が軽く跳ねた。
　「蓮子？」
　「あ、いや、あの」
　急にメリーが顔を上げる。私は今どんな顔をしている？
　熱い。とても熱い。どんどん熱い。
　「蓮子、もしかして風邪をひいているの？」
　「ど、どうして？――っ！」
　私のそのどうしてという言葉とほぼ同時にメリーの柔らかな手が額に触れた。気持ちいい。メリーの手、冷たい。
　「やっぱり、熱があるみたい。送っていくわ」
　「大丈夫だよ」
　「遠慮しないの」
　めっ。と人差し指を指される。そっか、風邪のせいだったのか。どおりで今日はずっとドキドキしているわけだ。財布から小銭を出してお店を出る。そうだった。部室がないことの不自由、あったわ。
　それはお金。

店を出て、電車に乗って、いつも私が降りる駅でメリーもついてきた。メリーの家はもう２駅先だ。
　「メリー、そんなに気を遣わなくても。」
　「定期だから値段は変わらないわ」
　財布を開いて電車の定期を見せて、メリーはそう言うと笑った。私が言いたいのはお金の問題じゃなくて時間の問題なのだけど。メリーはまだ課題が残っているし、時間が惜しいはず。
　メリーを電車に押し戻そうとすると、そのすんででドアが閉まる。危なかった。メリーを電車のドアに挟んでしまうところだった。
　ああでもどうしよう、電車が行ってしまった。次の電車を待ったとしても約十分のタイムロスだ。更にメリーのことだ。家まで送るとか言い出しかねない。駅と家との往復で更に二十分のタイムロス。家まで来てもらってタダで帰していいのだろうか…そうなると更に何分のタイムロスになるだろうか…ああダメだダメだ。
　「蓮子」
　「え？」
　メリーが私の顔を覗き込んでいることに今気づいた。いつからのぞき込まれていたのだろうか分からないが、何かを見透かされたようで少し恥ずかしい気持ちになる。
　「おせっかいが過ぎたかしら？」
　予想していなかったメリーの言葉に私は驚いた。難しく考え込んでメリーを心配させてしまったみたいだ。これ以上彼女に心配をかけないために私は努めて明るく笑った。
　「いえ。ありがとう、メリー。」

家に帰ると早々にベッドに寝かせられた。
　私の部屋は６畳１間。申し訳程度の料理スペースにはガスではなく電気のコンロ。その隣に冷蔵庫。炊飯器、トースター、電子レンジが同じラックの１段ごとにせせこましく入れてある。流しにはツッパリ棒で作った水切り台がある。省スペースの救世主である。お風呂にもツッパリ棒を駆使している。シャンプーやリンスは詰め替え用にフックを取り付けるだけのタイプを使っているし、トイレの便器の裏に通したツッパリ棒に掃除用具をぶら下げてある。ユニットバスなので洗面器の裏の部分と壁とでツッパリ棒を使っているのだけど…ってそんな話はどうでもいいよね。
　部屋はとてもシンプルで、奥にテレビがあって、その隣に本棚。あとは中央に机。それから本棚とテレビの反対の場所にベッドがある。あまりカラフルなのは好きじゃないから、だいたいは白か黒でモノトーンな部屋になっている。
　「さて、と」
　「ん？」
　メリーは私の机に筆記用具を出す。まさか、メリー…
　「ここで課題をやるの？」
　「そのつもりだけど、いけない？」
　「いけなくは、ないけど…」
　どうやらよっぽど心配させてしまったみたいだ。これは早いところ眠って、メリーを安心させた方がいいな…。
　メリーに合鍵を渡し、出ていく時はポストに入れておくように言ってから私は眠りにつく努力を始める。
　…眠くない。
　当たり前だ。まだ十九時じゃないか。普段０時に眠る私にはありえないほど早い時間だ。そもそも夕ご飯も食べてない。ああ、そう考えたらお腹がすいてきた…。でも起き上がるとメリーを心配させるだろうし…。
　「メリー、あの」
　「なに？」
　「おかゆ作ってもらえないかな？」
　そういえばそうか、みたいな顔をしたあと、照れ笑いしたメリー。
　いや、メリーに落ち度があったわけじゃないのだけど…うーん、病人って難しいわね。指南書でもあればいいのに。
　冷蔵庫から何かを出す音が聞こえてくる。程なくしてトントンとまな板の音が響く。ご飯を茹でてくれるだけで良かったのに。卵が入る音。
　ここからはメリーの料理風景は見えないけど、鼻歌から察するに、楽しんでくれているようだ。メリーは料理好きなんだ。初めて知った。
　いい匂いがしてきた。本格的にお腹がすいてきたぞ。そう思ったころ、メリーが戻ってきた。
　「ふーふー、あーん」
　「…」
　「蓮子？」
　「えっと、自分で食べられるから…」
　「そう？」
　私の言葉に少し残念そうにメリーは返した。ああ、メリーがしたかったのね。
　うぅん…そうとわかってもやっぱり恥ずかしいので気が付かないふりをしよう。
　「ありがとね。いただきます。」
　もやしと大根と卵か。味は塩で整えたのね。野菜の甘さだとか、塩の塩分だとかリポート出来たらいいのだけど、素直においしいしか出てこない。
　おかゆを食べ終えて薬を飲んでから横になると、すぐさままどろみがやってきた。うとうとしていたのか、眠っていたのか、かしゃんと鍵がポストに落ちる音がした。ああ、メリーは帰ったのか。
　おやすみ、メリー。

当たり前の世界

メリーの残り香のする部屋で目覚める。うーん、良く寝た。
　「ふぁ～…ん？」
　あれ？風邪でも引いたかな？自分のあくびの声が驚くほど低い。
　まあいいや、今何時だろう？時計を見るとまだ余裕がある。いつもはコーヒーで済ませるけど、今日はトーストを用意した。
　「う～…うーん」
　気持ちのいい朝で、気持ちよく伸びをしたいのに声が低い。なんだか気持ちが萎える。さきほどは１発目の声だったし、たまたま不発だったのかと思っていたがどうやら違うらしい。喉が痛いわけでもないのに、なぜこんなに声が低いのだろう…。頭の中の不快感がぐるぐると巡る。家に居るとちょっと良くないな。まだ時間に余裕があるけど家を出る。
　外は朝のにおい。心地いい。木々が風に揺れる音や、小鳥の囀り。遠くを通る車の音。耳に入る色々な音がまるでオーケストラのよう。ああ、なんて心地いい朝だろう。なんでこんなに心地いいのに。
　「なんて声なの…うわ」
　完全に男の声じゃない。まったく…。風邪にしたって声が低すぎる。あまりの慣れない声に、私は何度も驚いてしまう。当たり前だ。慣れるはずがない。私は女で、しかもどちらかと言えば声が高い方だったはずだ。それが一夜にして男の声。世界は何かがどうかしてしまったのではないか、なんて大げさに考えてしまう。
　そうこう考えているうちに駅についた。電車に乗り、ドア付近で寄りかかる。ふと気づく。そういえば今日は髪を結んでいなかった。
　鞄からりぼんを取り出そうとすると、いつも鞄に入れていた予備のりぼんがない。何かの時に取り出したのだろうか？
　そんな記憶はないけれど…。
　なんだか今日はやっぱり変だ。
　いつも通りの風景がどんどんと嘘っぽく見えていく。
　世界で取り残されたような。ただ一人取り残されたような。メリー…メリーに会いたい。
　電車が学校の最寄り駅に着くと、時間なら余裕があるのに、小走りで改札をくぐる。メリーに会えばこの不安は拭える気がする。早く、早く、メリー…
　改札の向こうには、いつもならメリーがいて、手を挙げて私を迎えてくれて、そのメリーが、今日はいない。
　私がいつもこの駅に着いている時間は、今より三十分もあとだ。つまりメリーが着くまでには最低でもあと三十分…
　気を紛らわすためにケータイのゲームでもしてみる…が、やる気が起きない。情報サイトを見るのも、なんだか乗り気になれない。コンビニでコーヒーを買い、ぼんやり空を眺める。最近のコンビニのコーヒーの進化のおかげで少し気持ちが落ち着いた。
　さて、この違和感はなんだろう。そもそも声が一番の違和感なわけだけど、それだけじゃない。りぼんはなんで入っていないのだろう？
　いつでも入れっぱなしにしていたはずの、私の少ないおしゃれであり、極小ながらの女らしさだったはずなのに。そうこう考えているうち、おそろしく長い三十分がそろそろ終わりを告げようとしていた。だけどもメリーはまだ来ない。
　時間的にそろそろクラスメイトとすれ違ってもいい頃だと思うけども、全然すれ違わない。
　いや、そんなことよりメリーだ。昨日私の家に遅くまでいたから、メリーは寝坊してしまったのかもしれない。メリーが私より遅いなんて初めてのことだ。なんて考えていると、走る足音。
　振り返ると、メリーだ。メリーがこっちへ向かってくる。これをどれほど待ちわびたかわからない。いや、三十分あまりだけど。
　
　「蓮！」
　「ああ…良かった、遅かったじゃない。心配していたのよ？」
　「遅くなってごめんなさい…ん？蓮、どうしたの、そのしゃべり方？」
　「そうなの。朝起きたら声がすごく低くて…」
　「いえ、蓮。声じゃなくてしゃべり方よ」
　「…え？」
　何かおかしい。いつものメリーじゃない…？
　ふわふわの金髪に青い目、引き寄せられるような容姿はいつも通りだけど、いつものメリーなら、その微笑みは光り輝いて、聖母のようで、天使のように柔らかで…
　なのに今のメリーは妖艶で、悪魔のようで…
　それに、今、メリー…
　「蓮、って言った？」
　「ええ。それがどうしたの？」
　「蓮、って言ったのね？」
　「蓮、あなたおかしいわ」
　一度目は笑顔で尋ねた。メリーも笑顔で答えた。
　二度目は真顔で尋ねた。メリーは怪訝な顔で答えた。
　「ええ、私今とてもおかしいみたい」
　先ほどの不安が蘇ってくる。不安はどんどん膨れ上がって、今にも爆発してしまいそう。パンパンに張りつめて、溢れ出すのを待ち構えているかのよう。
　「メリー、何かの冗談だったらもう十分よ。」
　「メリー？」
　「ええ。だからもうまいった。降参よ」
　「メリーって、誰の話？」
　メリーがメリーを誰って？
　メリーはメリー、あなたのことじゃない…！
　「メリーいい加減にして。全然笑えない」
　「何を言っているかよくわからないけど、落ち着いて？」
　「そう。じゃあわかりやすく説明するわね？私は宇佐見蓮子。蓮じゃないわ。この声はいつも通りじゃないし、私のしゃべり方はいつも通りだし、あなたはマエリベリー・ハーン。これで分かった？」
　すう、と一つ息を吸い、言えるだけの全部を言い切った。
　「ああ、あなた、向こうの蓮なのね」
　語気を強める私に対し、何か納得して彼女は答える。その声は冷静で冷たくて、さして興味がなさそう。私は何一つ分かっていないのに。なんだか腹立たしい。
　「まず、私はメリーじゃないわ。私は八雲紫。あとあなたは宇佐見蓮子じゃなくて、宇佐見蓮。向こうでのあなたは蓮子かもしれないけれど、今は蓮よ」
　一気にすべて言いきった私とは対照的に、一呼吸ずつ置いて、ゆっくり話した彼女は…八雲…紫…？
　メリーじゃない…？
　たしかに、メリーによく似ているけど、そっか、別人だったのね。え、ちょっと待って。
　「私、蓮、なの？」
　「そうよ」
　即答だった。
　「今まで生きてきて、私はずっと蓮子だと思っていたわ」
　いや、私は私で、心は宇佐見蓮子のままだ。だけど宇佐見蓮の体の中に今心が入っている。だから明確に言えばやはり私は宇佐見蓮子なわけだけど…。
　「そうでしょうね。どうしてそうなったかはわからないけれど、あなたは蓮と入れ替わってしまったみたい」
　八雲さんと名乗るメリーにそっくりなその人はとても落ち着いていた。まるで入れ替わってしまっても、そんなことは日常かのよう。もしかして、そんなことが当たり前の世界に来てしまった…？
　「私、境界を越えたの…？」
　願い続けた、憧れ続けた境界の先。
　予告なく、明らかな変化なく、呆気なく、突然に。
　私はメリーを残したまま、やってきてしまったのだ。

願い続けた先

八雲さんといつもの喫茶店に入る。
　いつも通りのこくりこくりと居眠りをするマスター。心地いい音楽に、モダンなインテリア。そしていつも通りの席。
　
　「先に訂正しておくけど、ここはあなたの想像している境界の向こう側ではないわ」
　いつも通りのコーヒーを味わっていると、八雲さんも同じ風にコーヒーを口に含む。メリーはコーヒーを飲まないのに…八雲さんは八雲さんで、やっぱりメリーじゃない…なんて考えていると、八雲さんがゆったりとそう口にした。続きをしばらく待つために黙ってみた。
　…が、続きは話されず、八雲さんはまたコーヒーを含み、何事もなかったように外を見た。
　たぶん、たった数分。だけど耐えかねて、私は口を開いた。
　「あ、あの。私の想像している境界の向こう側じゃないって、どういう意味ですか？」
　八雲さんは一度空を見てから私の方へ向き直す。
　「そうね…つまり今、境界の外にも中にもいないの。内側でも外側でもない。境界にいる。」
　左手を垂直に立て、右手で、左手で隔てた机の右側と左側を指し、垂直に立てている左手を指す。簡単で単純でわかりやすくて誰にでも行えるその行為が、八雲さんの美しい手から展開されているせいか、吸い込まれるような、圧倒されるような気持ちになった。まるで左手で隔てたその世界は視覚以上に広がっていくような…。
　「そうね…例えるなら、部屋と部屋を隔てるドアを開けて、そのドアで立ち止まっている、とでも言えばいいのかしらね」
　八雲さんは言葉を選びながら思案する。いろいろな手段を講じてもらっても、たぶん“わかったような気がする”の域を達することは出来ないだろうと思った。
　「ええと…大丈夫です。ともかくよくわからない世界に今いることだけはわかりました。」
　「そう…そうね。今はそれだけわかってもらえればいいわ」
　そのあと数度コーヒーを口に含む。お互い無言。
　沈黙が続く。平日の昼間だからか、時計のカチカチという音が響き、余計に時間を感じる。そして沈黙を破るのは、やっぱり私だった。
　「あの。それで、私は帰りたいのですが、どうしたらいいのでしょうか？」
　頼る人は誰もいない。だからこの人の機嫌をそこねちゃいけない。こんなことを聞いたら、もしかしたら不快な思いをさせるかもしれない。だけど私は焦っていて、冷静になんてなれない。手が汗で濡れ、じりじりと心が追いつめられる。八雲さんを見ることが出来ない。私はうつむいて、こぶしを握っていた。
　「帰って、それで、どうするの？」
　八雲さんの返答は意外過ぎて、私にはまったく意味がわからない。
　わからなさすぎて、絶句していた。
　帰ってどうする？
　それはもう、メリーに会うに決まっている…！
　「…あなたはなぜここにいると思う？」
　カチカチと時計の音が響く。音がどんどんと頭に響いて、ふわふわと、自分のいる場所がゆがんでいるような感覚になる。八雲さんは私の答えを待っているのか、黙っている。私はというと、そもそもどう考えていいか分からず、答えなんて出るはずもない。
　「ええと、私、こんなところにいるのは不安で、いたたまれなくて、全然私、その、私の居場所じゃないっていうか…」
　ああ、言葉がめちゃくちゃだ…。まとまりがなくてめちゃくちゃなのに、八雲さんはうんうんと聞いてくれた。不機嫌そうな顔は、どうやら元々らしい。
　「ここは本当にあなたの居場所じゃないのかしら？」
　「メリーのいないこの世界は、私に居場所なんてないですよ。メリーが、私の居場所なんですから。」
　八雲さんはそれを聞いて驚くでもなく、呆れるでもなく、とくに気にした様子ではなかった。ただそのまま言葉をそのまま受け取ったような。変化のない様子で、私の言葉はまるで発された意味なんてないようで。
　「この世界にマエリベリー・ハーンはいるわ」
　「え！」
　思わず立ち上がった。メリーがいる！メリーに会えるんだ！
　私は机の上で前に乗り出し、八雲さんの次の言葉を待ち構えた。
　「マエリベリー・ハーンは私。」
　「…？」
　八雲さんはまたわけのわからないことを言い出した。
　始めに自分を“八雲紫”と言い、私もこの人の固有名詞は“八雲紫”であると理解したはずだ。
　にも関わらず、“メリー”を名乗る？
　「八雲さん、あなた始めに、“自分はメリーじゃない”と言ったじゃないですか」
　「ええ、言ったわ。だけどたぶん、私はメリーだったのよ」
　「…」
　まるでわからない。何かの言葉遊びをされているのだろうか。それともからかわれているのだろうか。何か深い考えがあるのだろうか。とくに意味はないのか。
　考えていると、再び八雲さんは口を開く。
　「あなたが蓮であり蓮子であるように、私は八雲紫であり、マエリベリー・ハーンなのだわ」
　うん、そうだわ。とでも言いたそうな、八雲さんは納得した顔をした。
　冗談じゃない。一人で納得されては困る。私はまるでわかっていないのだ。
　「なぜ私がマエリベリー・ハーンなのかしら？」
　八雲さんに質問する前に、先に八雲さんに質問された。
　さらにその質問はどんどんと意味不明なものになってきている気がする。頭がパンクしてしまいそうだ。
　「ねえ、蓮。あなたは知らなくてはならない。見つけなければならない。」
　「何を、です？」
　「あなた自身が気づかなくてはならないことを、よ。」
　八雲さんは謎が先に解けてしまったようで、立ち上がる。まるで、もうこの話は終わり、とでも言いたげだ。
　八雲さんはさっさと会計を済ませて出て行ってしまう。八雲さんを追いかけ、私も会計を済ませる。
　いつも通り、ちょっぴり財布に痛い金額。
　「あ、あの！」
　「何かしら？まだ私に用？」
　用なら山ほどある。
　さっき帰れるようなことを言って、結局帰してはくれないし、メリーだと言ったりメリーじゃないと言ったり、本当にわけがわからない。だけどまず言いたい。
　「私は、蓮子ですから！」
　はっきりとそう告げるとしばしの無言。聞こえていなかったり無視していたりするわけでなく、八雲さんは思考し、言葉を選んでいた。その間はたった数秒。だけどいやに長く感じた。その後、八雲さんは口を開く。
　「私が八雲紫なら、あなたは宇佐見蓮。私がマエリベリー・ハーンなら、あなたは宇佐見蓮子。それがたぶん、この世界のルールよ。」
　その言葉は、私に呆れているでも、私に怒るでも、ましてや私を拒絶するでもなく。忠告。
　
　それから程なく、今度の沈黙を破るのは八雲さん。
　「だって蓮、考えても見て？」
　声は優しく、子供をあやすような。メリーに似た声。メリーに似た口調。
　
　「あなたはマエリベリー・ハーンがいる世界があなたの居場所だと言ったわ。なら、なぜあなたはまだここにいるの？」
　響いていく。メリーに似た、この人の言葉。
　
　「なぜマエリベリー・ハーンを探しに行かないの？」
　じりじりと心は追いつめられていく。なのに、次の言葉を求める。期待する。
　
　「答えは簡単だわ。あなたは私をマエリベリー・ハーンだと認めているのよ」
　あくまで優しく、ゆっくりと、丁寧に。

トドメを刺された。

この世界では八雲さんがメリー…このわけのわからない事柄は、本当にわけがわからないのに、妙に納得出来た。
　つまりそうか。それがこの世界での、ルール。
　例えるなら、数式や英語で理解出来ないものがあったとして、深く追及などしない。それはそういうものであるから。ルール、法則、規定、決まり、約束。メリーがいるから私の居場所であると、逆説的で強引に認められてしまった。

――――――
　そのあとどう帰ったのか、記憶にない。
　たぶん家までの道のりはいつも通りだから、なんとなくでも帰れたのだろう。ドアを閉め、ドアを叩く。
　何に怒ればいいのか、何に悲しめばいいのか、何を恨めばいいのかわからない。
　
　眠ろう。目覚めたときはもう少しまともに考えられると信じて。

おやすみ、メリー。

差し込む光は橙

昼時に家に着き、そのまま眠った。
　目覚めると十六時。部屋に差し込む光は橙色。部屋は美しく色づく。
　いつも見ている景色とあまりに同じであるからこそ不気味に感じた。

鏡を見ると、そこには私によく似た青年がいた。髪の色、目の色、全体的な顔立ちにそれほどの違いはない。
　だけど男。この人物は紛れもなく男だ。
　理論や化学の及ばない何かで、私の性別は…いや、事実だけ受け止め、考えるのはやめよう。

眠る前に考えていたことをゆっくり思い出してみよう。
　まず、私は何かよくわからない世界にいる。この世界にはメリーの代わりに八雲紫という人物がいる。また、この代わりにという概念はそもそも八雲さんの言葉から来ているものであり、確証はない。が、なぜか分からないが私は納得できてしまう。八雲さんをメリーとして受け入れられてしまうのには、この世界のルールが関わっているようだ。
　この世界のルールはまだこのことしかわかっていない。だけど、この世界と今までの世界との差はまだある。眠る前はそれほど気にしなかったが、人にあまり遭遇しない。八雲さんとマスター以外の人間を見ていない。
　まるで私から見て、毎日必ず会う二人にだけ会っているかのような…いえ、まさかね…。

――――！
　私がこうして入れ替わっているということは、”宇佐見蓮”はどうなったの？

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